確率的発想法

確率的発想法~数学を日常に活かす確率的発想法[rakuten]を読んだ。サブタイトルには「数学を日常に活かす」とあるのだけど、んー、どうだろう。

全体で九つの章があるうちの六章までは概ね(……まあ、ある程度は)客観的な視点で書かれているように思えたのだが、残りの三つの章については著者の思想的な意見が見え隠れ、というか、見え見え隠れくらいの感じで出てきている。主張が含まれるのは当然としても、それがどうも歯切れが悪くて気持ち悪い。

それはたとえば、「自己責任」だとか「構造改革」だとかいう最近の風潮について「そういう理屈が成立するためにはこれこれの前提が必要なのにそこのところにはあまり触れていない」というようなことを指摘しておいて「これを先程の理論で考え直すと〜」と持っていくわけなのだけど、その理論にだって本文中で挙げられているだけでもいくつかの前提条件が必要だとなっているのは変わりないといった点には触れていなかったりする。そもそも、そういう形での主張をするのであれば、どっちの考え方が現実の社会にマッチするのかという点での比較をしないとならないと思うのだけど、それについて説明はサラッと流されていたりして全体的に説得力に欠ける(「見え見え隠れという感じ」なのはそのせいだと思う)。で、この後のほうの三章が社会へのアプローチを示している記述にあたるため、サブタイトルにあるような何かを求めるとイマイチだなあということになりそう。

ただ、六章までは学校で習った確率よりももっと広がりのある話がされていて、この部分はなかなか楽しい*1。ごく基礎的なところから始まって、人々が必ずしも大数の法則に従わないことを説明しようとする試みだとか、ベイズ理論の解説だとか。

全体としては一般向けの読み物だけど、式や記号は出てくるので読み通すには数学に対するいくらかの許容度は必要になる。まあ、心配するほどのものではないと思うけど。時間と気持ちに余裕があるときにまた読み返してみようかな、と思っているところ。

*1 ただし、「コモン・ノレッジ」の説明の部分については疑問がある。ある情報がコモンになる過程が説明される中で「情報分割」の遷移がポイントとなっているのだけど、誰がどういう「情報分割」をしているのかが予めコモンになっていないと本文中の説明(つまりあることが「コモン・ノレッジ」になるための過程)は成り立たないのではないか。